1972年1月から1989年7月まで『小説新潮』で断続的に連載されたし、後にテレビドラマとしてシリーズ化もされたからご存知の方は多いであろう。
秋山小兵衛という無外流の達人の父親とその息子秋山大治郎が活躍する面白い時代小説である。
池波正太郎のこの手の小説というと作中の伏線が見事で、どれも筋立てが秀逸で読んでいて気持ちのいいものである。
そうした『剣客商売』のドラマを目にする度に、ふと思い出す過去の出来事がある。
それはもう何十年も昔のことであって細部の記憶も幾分あやふやなのだが、いまだに記憶の片隅にわずかに残っている事件のことである。
いまとなれば、これは事件というよりは一つの椿事というべきものかも知れない。
しかもその椿事に関わった当事者は二人いて、その二人とは親子(父子)であった。
それぞれ別々ではあったのだが、偶然にもその二人からそのおかしな事件の顛末を相前後して断片的にではあるが直接耳にしたのであった。
当事者二人から話を聞いたといっても、いまとなってはどちらが先だったのかも記憶が定かではないが、この話自体には二つの場面展開がそれぞれに別個にあったということになる。
一方の話だけでも何となく話にはなるのだが、それだけではただの偶発的事件で終わってしまう。何のこともないわけである。
つまりここては当事者二人(父子)の話を繋いで前後に並べることによって、ようやくここで一つの事件の流れとして第三者にも十分理解できる展開になるわけである。
早い話、この物語には前編部分と後編部分とが別々にありますよということである。
しかも意外なことに当事者二人は親子でありながら、この事件についての経緯や顛末を互いに知らせ合ったりはしていなかった。
互いにそれぞれの情報を共有してはいなかったわけで、ここらが整理されていないところが多少面倒なわけである。
両者の話を並べてみると実に愉快な事件の展開が理解できることになる。
ところが可笑しなことに当事者の親子自体はまったくそうした認識には立ってはいなわけで、とにかく私のような部外者からみると愉快な話であって思わず笑ってしまうのである。
親子共どこかしら似たところがあって、相対峙しているところがあって両者の性格がそこには表れているようで、これにもいささか可笑しみを感じないでもない。
そこらは何だか妙な感じではあるが、やはり親子の間でも相手を気遣って口にしたくない部分があったのだろうと勝手に推測するしかないわけで、おそらくは互いに話さずとも別に構わんだろうという気分にもさせられるような事件の推移だったのだともいえるわけである。
結局のところ当事者にとっては、どうでもいいことなのだろうと思うしかない。
そういうことでこの親子が関わっていながら、この椿事の細部について両者の間ではどこまで情報が伝わっていたのかいまとなってはまったく分からない。
結局のところこの椿事の経緯とその後の展開そのものは、個別に話を聞いた当方が一つの事件の顛末としてそれを再構成できる立場に置かれているということになる。
話自体は単純明快なものである。
別段複雑な話しというわけでもない。
とはいっても、この椿事に遭遇した当事者はどこまでも真剣であったのだ。
部外者から見ると、そこが何やら可笑しみがあるのだ。
ここまで何やらもったいぶった書き出しになってしまって、このブログを目にされた方は一体何を言っているのか分からないと怪訝に思われていることであろう。
このように多少の前置きをしておかなくては肝心の話は進め様がないわけで、要するにそうした段取りを事前に講じておきたいという気持ちをもここでは察していただきたいところである。
話自体は簡単明瞭であって、一気にぱっと読み飛ばせるものだからここで気ぜわしく焦る必要などはないわけでのんびりと構えていただければいいわけだ。
冒頭で紹介したようにこの椿事はいまより半世紀ほど溯った昭和の時代ののどかな田舎町での椿事である。
季節は春であった。
九州の春は格別に色彩が豊かである。
野山は新緑に覆われ、周囲の田圃は一面に菜の花が咲き誇っていた。
遠くから見れば黄色い絨毯を敷き詰めたような景色が平野部一杯に広がっていた。
いま思い返せばすごく豪華な色彩に富んだ風景であるのだが、当時はごくありふれた田舎の情景でしかなかった。

この季節になると野道を行き来する時は菜の花畑からはむせかえるような花の香りが風に乗って漂ってきていた。
花の香りに鼻が心地よく刺激されるのである。
それに花の間を飛び交う無数のミツバチの羽音が何やらせわしく聴こえてきてくる。
ミツバチだけではなかった。
次々とモンシロチョウが現れて、戯れるように周囲をふわふわと面白げに飛び回っていた。
こうした時期は人々の心も何かしら浮き立つのである。
ロマンチックな展開であれば、それこそ最高のシチュエーションであったことであろう。
気分はすこぶる爽快であった。
そういうときこそ、目新しいこと、何かうきうきするような椿事がいきなり到来するような漠然とした甘美な予感が自然に湧き出てくるものである。
そのときの田中君もおそらくそうした感慨に浸って、その田舎道を歩いていたはずであった。
田中君はその日も柔道の稽古にゆっくりした足取りで道場へ向かっていた。
その時である。昼間の田舎道だからほとんど人影がないのだが、突然向こうから大柄な人影が近づいて来るのが見えた。
田中君は思わず舌打ちをした。
遠目にもその相手が誰であるかが田中君には分かったからであった。
その男はこの町でも知られたやくざ者であった。
陰ではよたもん(者)とか汚れもん(者)とかいわれていたから、好き好んでこちらから近づくことはなかったが、幅の狭い野道であれば否応無しに互いに顔を合わせることになる。
所詮避けようがないのである。
田中君はこうした場合相手が誰であろうと顔を逸らすようなことはしない。
それに見合っただけの男らしいい面構えをしているから何かと周囲にも誤解を招くのだ。
このときも相手とすれ違う直前、いきなり激しく火花が散ったというべきであったろう。

「おい、坊主!奴(ぬし)はガンばつけたろうが!」と相手の男が厳つい表情で威嚇してくる。
「ガンやらつけとらん!」とは憮然として田中君は応える。
「何ちや!(何だと!)おおちゃっかぞ(生意気だぞ!)!柔道着ば担いでのぼせとるとか!」
「のぼせとらん!」
田中君はそのまま男の傍をすり抜けて行こうとした。
「こら!待たんかい!」と、男が後ろからいきなり田中君の左腕を掴んだ。
その瞬間であった。田中君は男の掴みかかる手を振り払うと同時に、相手の胸倉を掴むと見事な背負い投げで投げ飛ばした。
地面に叩きつけられた男は素早く跳ね起きると血相を変えて、そのまま田中君に飛び掛っていった。
柔道は本来そうした相手の力任せの勢いを逆手にとって巧みに技を掛ける。
田中君は相手の体勢をうまく崩して得意の大技で対抗する。
払い腰、体落とし、大腰と見事な体捌きで掴みかかってくる相手をその度にぽんぽんと投げ飛ばす。
相手は次第に息切れがしてくる。
田中君から見れば相手は大の大人であるが、挑みかかって来る以上投げ飛ばすしかない。
売られた喧嘩を買ったまでである。
相手の足元がもつれた瞬間を逃さず、最後は一本背負いで道脇下のキャベツ畑に勢い良く投げ飛ばした。
男の体は大きく宙を舞って、もんどり打ってキャベツ畑にそのまま落下した。
男の体の下敷きになってキャベツがグシャッと潰れる音がした。
腰の辺りをしたたかに打ちつけたのか男は起き上がってこなかった。
田中君は転がっている柔道着を手に取るとそのまま道場へ向かった。

田中君は家に帰宅してもその日の出来事は家族には一言も話さなかった。
いつものことであるが、外での喧嘩などは家族には一切話さない。
その夜はさすがに昼間の興奮が残っていて眠れなかった。
相手が相手だけに、夜間仲間と共に仕返しに来るのではないかと考えていた。
それが気掛かりで、枕元には木刀を置いて寝ていた。
このとき田中君の父親は、一月前から病気療養中で入院しており自宅にはいなかった。
田中君にしてみれば父親不在のときに面倒なことを抱え込むようなことは避けたいところではあったろうが、今回は不本意ながら事情が事情だけに突発的な争い事に遭遇してしまったわけである。
いってみれば降りかかってきた災難であったわけである。
田中君は、もちろん今回の喧嘩の件は父親には何も伝えなかった。
療養中の父親に報告したところでどうしようもないわけで、むしろ余計な心配を掛けてしまうことになると考えたのであった。
言えば言ったで当然怒られるであろうし、逐一報告することなど何やら面倒なことにも思えた。
第一これまでとて外での喧嘩を父親に話したことなどは一度もない。
どちらにしろ喧嘩沙汰などそこらにいくらでも転がっているわけだから、基本的にはそう対処するのが当たり前ということなのだ。
田中君はとにかく楽観的に物事を捉えている。
何が起ころうと所詮大したことではないのだ。
ヤクザとの喧嘩は始めてであったが、なるようになると思っていた。
それに相手の脅しに怯むような気弱さは所詮持ち合わせていないわけだから、今回の件はどうみても当然の成り行きとしかいいようがなかった。
田中君は結局のところ、売られた喧嘩を買ったまでのことだと自分に言い聞かせていた。
成り行き自体は気掛かりではあったが、肝心の相手の男は田中君の前には現れなかった。
とはいえ、この件が何事も無く済んだというわけではなかったのだった。
あろうことか、数日後に相手の男は田中君の父親のところに押し掛けていったのである。
療養所の外庭に入院中の父親を呼び出して直談判に及んだわけである。
妙な展開である。
田中君の父親は病気のせいもあって、顔色は青白くやせ細って見えた。
小柄な体躯であったので、傍目にはよけいに弱弱しい感じがしたことであろう。
男は威圧するような態度で、田中君との喧嘩の件を持ちだした。
ねちねちした相手の男の話を聞いていた父親の表情は次第にこわばってきていた。
父親は、相手の様子を窺いつつうおもむろに口を開いた。
「大の大人が学生に喧嘩ば吹っかけて酷い目におうたちゅことじゃろうが」
「大人も学生も関係なか。手加減もせんな滅茶苦茶に投げ飛ばされて全身傷だら
けたい!」男は手足の傷を見せながら声を荒げて言う。
「男同士の喧嘩やけんそれくらいの怪我は当たり前たい。骨折やらしとらんとや
けん息子も投げるとき手加減ばしとるはずたい」
「人に傷を負わせとってただで済むと思うとっとか!」
これを聞いて男の狙いが分かったのである。
男は怪我に対する見舞金を暗に父親に要求してきているに違いなかった。
「何ね、脅しよっとね?俺は脅したかりは受けんばい」
父親は男を睨み付けて言い放った。
「何ちや!(何だと!)」
二人の間でその後も険悪なまま言い争いが続いた。
執拗に迫ってくる男に業を煮やした父親は、もう時間だから部屋に戻ると言って
そこから立ち去ろうとした。
「こら!逃げるとか!」と叫ぶなり、男は父親の肩を掴んで引き戻そうとした。
その刹那、男の体は宙に大きく円を描いてそのまま地べたに叩きつけられていた。
見事な背負い投げ、一本であった。
「俺は喧嘩なら手加減はせんばい」父親はそう言い放った。
外庭の固い地面にしたたかに叩きつけられた男はしばらくの間起き上がれずに、その場に丸太のように転がったままだった。
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