地方都市でありながら観光地としてのポテンシャルが半端ない!?
- 2023/10/13
- 18:48
秋深まる水郷柳河の夕暮れ風景
柳川は水郷ともいわれるように街中を縦横に掘割が走っていて、これが柳川独特の景観になっている。
水辺に町並みがある、あるいは水路・運河の通る町並みというと、まるでイタリアのベネチアの景観を彷彿とさせる。

柳川は戦国時代の蒲池氏の城下 (柳河城)として、その後安土桃山時代には田中吉政が入府し、さらに江戸時代には猛将として知られる立花宗茂の柳河藩13万石の城下町として発展してきた由緒ある歴史がある。
その過程で軍事的城塞造りや治水工事によって、現在の柳川が形成されていった。

その経緯は複雑であった。
天正14年(1586)九州を制圧した秀吉は猛将立花宗茂の軍功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、さらに大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。
立花宗茂は朝鮮出兵にも携わった。
そのご慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた宗茂は、戦後改易となり柳川の領地を失い宗茂主従は苦しい浪人生活を送ったとされる。
この直後に柳川を統治したのは田中吉政であった。
田中吉政は関ヶ原の戦いで敗れた石田三成を捕縛する功績によって、慶長6年(1601)その恩賞として筑後一国30万石(現久留米市周辺・柳川を含む)の領主となった。
吉政は柳川の地の利を重視し柳川城を居城としただけではなく、河川の治水工事に注力し当地に大きな功績を残したが、後継者に恵まれずその後田中家は断絶した。
その直後、奇跡的に徳川政権下で再び柳川の地は立花宗茂の領地となるのだから面白い。

関ヶ原では西軍に属していた立花宗茂は一旦領地柳川を失いながら、奇しくも再び大名として旧領柳川に返り咲いたことになる。
宗茂は敵将なありながら、その武将としての力量を三代将軍家光に高く評価されたのである。
宗茂はさらに田中吉政の治水事業を継承し、柳川独特の掘り割りを整備した。

柳川の掘割は歴代の領主による治水工事でここまで営々と整備されてきたもので、江戸時代当時とほぼ変わらない300年にわたる水路施設をいまも随所に残している。
それが現在の堀割設備であり、城下周辺の水路沿いの主立った商家や寺社は、かつての柳河の古地図と変わらぬ位置にそのまま残されていることになる。
それが柳川独特の水路に囲まれた独特の風情として、そのままの形で残されているということになる。
実際にかっての柳川城は周囲を二重、三重に水路で囲まれていたわけで、戦時には水門を開けばたちまち水位が上がって難攻不落の水城として防御できた。
湿地帯に囲まれた田畑を守るための治水ということもあるのだが、戦国期を含めて防衛上の水路を工夫して整備しているのもその特徴である。

もともとこの土地一帯が有明海にも近くて低湿地帯であるのだが、排水路としての掘割の整備によって治水を改善してきたのであり、その結果柳川周辺は水路の間に町並があり、それらの町並を囲むようにいくつもの水路が縦横に流れている今のような景観となったのだ。
現在でも町中を走る掘割には各所に堅牢な水門が設けられていて、雨量や季節変動でもその水位を人の手で調節できるようになっている。

多くの掘割自体は、昔は運河として貨物の輸送にも活用されたし、その水は住民の飲み水や生活用水としても使われていたというから驚きである。
現代ではそこまでの水質は保たれてはいない。

いまではその掘り割りも市民の努力で綺麗に整備されて、見た目にもひなびた観光地の風景にみえる。
柳川といえば、現在ではもっぱら小舟による観光川下りとウナギ料理が有名であるから、昼時になるとウナギを焼く香りがそこらに漂う。

町中を散策すると、掘り割りの両側に風情のある建物が並んでいる。
江戸時代当時も掘割の両側にはたくさんの商家か並んでいた。
掘割に隣接しているから、重い荷駄も船を使って運び込めたのでその積み下ろしには至極便利であったはずである。

そうした商家の間を散策するのもいいのだが、意外な出会いがある。
詩人北原白秋は柳川の出身であって、そうした古風な街の佇まいのなかに北原白秋の生家が保存されている。

そこには北原白秋生家とその記念館が並んでいる。

むかしの面影を残した白秋生家の造り酒屋の様子が伺える。
柳川の町筋では街独特の暮らしに即した施設があって、市内を散策するとそうした意外な発見がある。

柳川では掘り割りに面して、各家々には水くみ場が設けられている。
かっての商家や武家屋敷には、こうした掘割からの石段の上り口が設けられていた。
そこから小舟に乗ることも出来たし、婚礼の時は道路を使わずにこうした船着き場からそのまま家から家へと花嫁の輿入れが行われていた。
柳川ではいまでもそうした婚礼儀式の伝統が残されていて、川沿いを歩いているとときたま目にすることがある。

地方都市である柳川は鄙びた風情があるのだが、観光事業にはそれほど積極的ではないようにも見える。
それこそ観光資源としての立地条件や要素は十分揃っているのに、もったいないことである。

柳川は水郷ともいわれるように街中を縦横に掘割が走っていて、これが柳川独特の景観になっている。
水辺に町並みがある、あるいは水路・運河の通る町並みというと、まるでイタリアのベネチアの景観を彷彿とさせる。

柳川は戦国時代の蒲池氏の城下 (柳河城)として、その後安土桃山時代には田中吉政が入府し、さらに江戸時代には猛将として知られる立花宗茂の柳河藩13万石の城下町として発展してきた由緒ある歴史がある。
その過程で軍事的城塞造りや治水工事によって、現在の柳川が形成されていった。

その経緯は複雑であった。
天正14年(1586)九州を制圧した秀吉は猛将立花宗茂の軍功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、さらに大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。
立花宗茂は朝鮮出兵にも携わった。
そのご慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた宗茂は、戦後改易となり柳川の領地を失い宗茂主従は苦しい浪人生活を送ったとされる。
この直後に柳川を統治したのは田中吉政であった。
田中吉政は関ヶ原の戦いで敗れた石田三成を捕縛する功績によって、慶長6年(1601)その恩賞として筑後一国30万石(現久留米市周辺・柳川を含む)の領主となった。
吉政は柳川の地の利を重視し柳川城を居城としただけではなく、河川の治水工事に注力し当地に大きな功績を残したが、後継者に恵まれずその後田中家は断絶した。
その直後、奇跡的に徳川政権下で再び柳川の地は立花宗茂の領地となるのだから面白い。

関ヶ原では西軍に属していた立花宗茂は一旦領地柳川を失いながら、奇しくも再び大名として旧領柳川に返り咲いたことになる。
宗茂は敵将なありながら、その武将としての力量を三代将軍家光に高く評価されたのである。
宗茂はさらに田中吉政の治水事業を継承し、柳川独特の掘り割りを整備した。

柳川の掘割は歴代の領主による治水工事でここまで営々と整備されてきたもので、江戸時代当時とほぼ変わらない300年にわたる水路施設をいまも随所に残している。
それが現在の堀割設備であり、城下周辺の水路沿いの主立った商家や寺社は、かつての柳河の古地図と変わらぬ位置にそのまま残されていることになる。
それが柳川独特の水路に囲まれた独特の風情として、そのままの形で残されているということになる。
実際にかっての柳川城は周囲を二重、三重に水路で囲まれていたわけで、戦時には水門を開けばたちまち水位が上がって難攻不落の水城として防御できた。
湿地帯に囲まれた田畑を守るための治水ということもあるのだが、戦国期を含めて防衛上の水路を工夫して整備しているのもその特徴である。

もともとこの土地一帯が有明海にも近くて低湿地帯であるのだが、排水路としての掘割の整備によって治水を改善してきたのであり、その結果柳川周辺は水路の間に町並があり、それらの町並を囲むようにいくつもの水路が縦横に流れている今のような景観となったのだ。
現在でも町中を走る掘割には各所に堅牢な水門が設けられていて、雨量や季節変動でもその水位を人の手で調節できるようになっている。

多くの掘割自体は、昔は運河として貨物の輸送にも活用されたし、その水は住民の飲み水や生活用水としても使われていたというから驚きである。
現代ではそこまでの水質は保たれてはいない。

いまではその掘り割りも市民の努力で綺麗に整備されて、見た目にもひなびた観光地の風景にみえる。
柳川といえば、現在ではもっぱら小舟による観光川下りとウナギ料理が有名であるから、昼時になるとウナギを焼く香りがそこらに漂う。

町中を散策すると、掘り割りの両側に風情のある建物が並んでいる。
江戸時代当時も掘割の両側にはたくさんの商家か並んでいた。
掘割に隣接しているから、重い荷駄も船を使って運び込めたのでその積み下ろしには至極便利であったはずである。

そうした商家の間を散策するのもいいのだが、意外な出会いがある。
詩人北原白秋は柳川の出身であって、そうした古風な街の佇まいのなかに北原白秋の生家が保存されている。

そこには北原白秋生家とその記念館が並んでいる。

むかしの面影を残した白秋生家の造り酒屋の様子が伺える。
柳川の町筋では街独特の暮らしに即した施設があって、市内を散策するとそうした意外な発見がある。

柳川では掘り割りに面して、各家々には水くみ場が設けられている。
かっての商家や武家屋敷には、こうした掘割からの石段の上り口が設けられていた。
そこから小舟に乗ることも出来たし、婚礼の時は道路を使わずにこうした船着き場からそのまま家から家へと花嫁の輿入れが行われていた。
柳川ではいまでもそうした婚礼儀式の伝統が残されていて、川沿いを歩いているとときたま目にすることがある。

地方都市である柳川は鄙びた風情があるのだが、観光事業にはそれほど積極的ではないようにも見える。
それこそ観光資源としての立地条件や要素は十分揃っているのに、もったいないことである。
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